JUGEMテーマ:メディアリテラシー
7月13日の続きというには間が空き過ぎた上に、ちょっと取り散らかっている感がありますが、考えている方向としては(自分なりに)同じなのでやっぱり続きです。
いきなりですが、遅ればせながら、某動画配信サービスのサブスクに入ったんですよ。
(入るというか始めたというのか、どういう言い方するのかわからないのですが、)とりあえず サブスクで観るようになって2カ月あまり経ちます。
最初のころは多分あるあるでしょうが、その昔(テープの時代)初めてビデオデッキ買ったら、とにかく録画しまくって観まくったみたいに、観たかったけど見逃していた映画やドラマを観まくりました。
生活の時間配分が「配信サービスでなんか観る」のが中心になったのですが、2週間くらいたって、こんなことばかりしていては仕事もできないとなり、ふと、思ったんですよ。
まあ、便利な世の中になったもんだと。
だって、いつでも観たいときに観たいドラマとか映画とか観られるんですよ。
ビデオみたいに録画も映画みたいに予約もしなくていいし。
トイレ行っている間に止めておくこともできるし。
まあ、確かに効率もいいですわ。
ただし、これって、テレビとは違って、観たいものだけ観ていればいいってことだよね、と。
逆にいえば、観たくないものや興味のないものは一切観なくて済むということだよね。
いまの時代、動画配信に限らず、自分の観たいもの=自分のほしい情報だけを大量に高速で自分の中に取り込むことができるわけですよ。
自分の観たいもの、自分のほしい情報ばかりを取り込むことに自分の時間を使えば、使うほど、私の頭の中の情報は偏っていくのでは?
続きます。
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5月29日の続きです。
ネットの中に「論」は成立するのかと、そこ(特にSNS)はどんな世界なのかということですが、考えているうちに、また何かと騒ぎが起きていたようで。
ここ最近、忙しくてブログもツイッターも触っていなかったので、すごくたくさんの人が「どうする?」「どうなる?」と右往左往しているのを少し遅れて知りました。そのせいか、自分でもわりと客観的にこの騒ぎを見られている気がする(といいながら、そろそろ収束する気配?)。
この騒ぎが起きる少し前から考えていたんですよ。
やはり「よく読んで、よく考える」しかないなと。
それが、ネットの海で自分を守る+だれかを傷つけないための基本だと。
ただし、それには前提条件と作法がございます。
まず、前提条件ですが、それは情報を正しく得ること。
情報を正しく得るとは、どういうことか、ですが、
ネット上には、出どころの怪しい噂やウソや不確かな情報や、それにもとづいたどこかの誰かのテキトーな放言などがあふれています。
そういう情報を鵜吞みにしないことです。そういう情報をもとに考えたところで、ヘタな考えになってしまうので。ヘタな考えをもとに発信することほどキケンなことはないと、Tote は思います。
続きます。
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5月16日の続きです。
ネットの中で「論」は成立するのか、ですが、ここ数年、観察してきて思うのは、特にSNSの中ではかなりむずかしいでしょうな。
大辞林によると、「論」とは、「ものの道理を述べること」や「議論すること」とある。
では、「道理」とはなにかと調べると「物事がそうあるべきすじみち」、そして「人の行うべき正しい道」ですよ。
いまは多様性の時代ですからね。
「そうあるべきすじみち」や「正義」も多様にあっていい?
それは、あっていいでしょう。
そして、ネット上では多様な人の多様な意見や言葉が溢れております。こんなメディア(世界)はいままでになかったよな。
それは、どんな世界になるはずだったのでしょうね。
続きます。
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2022年7月14日の続きです。
こんにちは、ブッククーリエ 店長のトートです。
なんと、まあ、1年近く前の記事の続きです。
忘れていたわけではないんですよ。
ネットの中では、次から次に「これは、どう考えればいいのやら」と思うことが、あまりに目まぐるしいスピードで起きるので。
ネットの情報の海でおぼれそうになりながら、そういうできごとを観察しながら「どう考えればいい」のか考え続けておりました。
1年前には、この「どう考えれば」には「どう論評すれば」や「どう議論すれば」という意味もトート的にはあったのですが。
最近、感じているのは、そもそもネットの中で「論」は成立するのか、ということ。
続きます。
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5月29日の続きですが、放置していたわけではなく、書こうとして何回も消したり書いたりをくり返しております。
その間に大変なことが起きてしまいました。
継続して世界でも大変ひどいことが起きいます。
なんとなく「かみ合わない論争」と関係しているように思える。
「かみ合わない論争」というのもおかしな言葉ですね。
一見論争のようだけど、かみ合っていなければ論争ではないわけで。
かみ合わない言葉の応酬とでもいえるでしょうか。
SNS上でよく炎上している一見論争めいたものをよく見てみると、話がかみ合っていないことが非常に多いようです。
逆に、話がかみ合っていれば、炎上しないみたい。
そういう「炎上」を観察しながら、双方の意見(あるいは3方向以上から意見が飛び交うことも)を追ったりしながら、なんでかみ合わないのか考えていたんですよ。
続きます。
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3月9日の続きです。
続きを書こうとして1カ月半開いてしまいました。
この間、よく読んでよく考えることをしていなかったかというと、そんなことはなく、SNSで起こることを見ながら、いろんなものを読みながら、いろいろと考えておりました。
頭の中である程度整理がついてはいても、それを文字にして不特定多数の人たちが見る可能性のあるところで公開するのなら、やはりよく考えて文字にする必要があると思うんですよ。それは、できるだけ誤解が少なく伝えたいと思うから。
これは、前回の「かみ合わない論争」にどこかで通じるものかもしれないです。
自分の考えや意見とまではいかない、ちょっとした感想やつぶやきでも人目にさらすとなると、それに賛同や同意してくれる人もいれば、否定的に受け取る人も出てくるのは当然のことだし、自分と違う考えや意見や感覚を持つ人がいるのも当然だし、それでいいと思う。
それで、自分の発言に対し、否定的な意見や反論を述べる人がいてもいいと思う。ただし、それは、こちらの意図がある程度正確に伝わっていることが前提になりますが。この前提があって、意見を交換しあうのが「論争」だと思います。
続きます。
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2月23日の続きです。
「言っていいことといけないこと」の一線を超える言葉を投げかけるなら、もうその相手との関係性はどうなってもいいということです。その覚悟を持つか、または、そこまで我慢にガマンを重ねたあげくの最後通牒として使うものだと、Tote は思っている。
そして、その言葉を実際に使ったあとは、相手との関係は修復不可能。あとから「あのときは感情的になっていて...」とかそんな言い訳ではどうにもならないと思って使うべき。一線を超えた言葉とは、人間関係を壊す、信頼関係を放棄する威力のあるものなのだから。
と、一連の炎上騒動にみられる共通のひとつ「一線を超えた言葉」については、いったん ここまでにしておいて、もうひとつ気になっている共通点があるので、そちらについて。
それは、炎上騒動って、誰かの意見表明だったり、そこまでもいかないちょっとしたつぶやきや、企業や官公庁の広告(商用とは限らない)について、誰かが批判あるいはネガティブな意見をつけ、そこから賛否分かれて論争(?)になることが多いようですが、ここで、「論争」に「?」をつけたのは、そのうちの多くのケースが論争になってないではということ。
つまり、炎上騒ぎって一見、論争のようだけど、議論がかみ合っていない、ということ。
続きます。
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2月4日の続きです。
ここ数カ月のいろんな炎上騒動を見ていて、気づいた共通点がいくつかあって、まず、そのひとつは、すごい言葉が飛び交うということ。
すごい言葉というのは、ふつうにリアルの職場や家庭では、あまりというかめったに使わない、使ってはいけないとされている言葉です。すなわち、世の中には言っていいことといけないことがあって、その一線を超えてしまっている言葉です。
Tote は言葉に関係する仕事をしてきたからというのではなく、個人的に、「言っていいこと」と「言ってはいけないこと」の違いって何だろうと数年かけて考えたことがあって。
「親しき仲にも礼儀あり」ということわざがありますが、「言っていいこと」と「言ってはいけないこと」の一線はその「親しき仲の礼儀」を超えてしまうものだということに行きついたのです。
では、そこを超えたらどうなるのか? 「親しき」関係性は壊れてしまうということです。信頼していた人がもう一切信じられなくなったり、深い愛情や友情が正反対の感情、もしくは無感情になってしまったり。
だから、言葉には気をつけなさいということですが。
続きます。
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10月31日の続きを書こうとしながら、きっちり3カ月経ってしまいました。
なんで、こんなに間があいてしまったかというのは、忙しかったこともあるけど、あまりに考えることが多かったから。というより、じっくり時間をかけて考察したいと思ったから。
また、そう思いながらいたこの3カ月の間に、SNS(特に◯イッター)では、次から次に「言葉」によるいろんな炎上騒動が起きていました。というか、起き続けていますね。
こういうのって、多くの人にとって気分のよいものではないし、騒動が収まったあとも、やはり多くの人が後味が悪いどころか、当事者の中には、仕事に影響するような深刻な被害を受ける人もいる(とはいえ、収束後はすぐに忘れるというか、どうでもよくなる人も多いのだろう)。
なんでそんなことが起きるんだろう? それも何度も何度も、くり返し。
それこそ、前回書いた見たくもないようなことなのだけど。また、そんなことができる「言葉」の力にあぜんとしながらも、これをちょっと観察していれば何か見えてくるのではないかと考え、しばらく観察しておりました。
そういうわけで、前回の続きというには、ちょっと流れを切ったようになりますが、ご容赦を。
それぞれ違う騒動に見えるのだけど、ずっと見ているうちに共通することと、見ていてなぜ気分がよくないのか、ちょっとわかってきた気がするのですよ。
続きます。
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10月22日の続きです。
そう、ここ2〜3年、特に去年おととしごろから、ネットの中のいろんな文章(ときには文章になっていないフレーズや単語の羅列)を見て、「読まなきゃよかった」と思うことが本当に多くなった。
ここからは、主観によることが多くなりますが、自分で「読まなきゃよかった」という思いってどんなものだろうと考えた。
それは、つまり読んで気分が悪くなる、不快になる(つまり、イヤな感情になる)ということ。
そうすると、気分が悪くなる、不快になるような文章(フレーズや単語の羅列)って、どんなもの?ということになるんだけど、ここをちょっと主観で分析してみます。
残念ながら、この世の中では不快だったり、おぞましかったりする事件や事故、事象が起きます。
そういうことを伝える記事を読んだからといって、事実を客観的に伝えているのであれば、事象そのものについて不快に感じることはあっても、その記事そのものや記事を書いた人について、「こんなことを伝える記事はけしからん!」とか「こんな記事を書く人はイヤな人間だ!」とか、Tote の場合、思うことはほぼありません
(とはいえ、そこはライターなので、職業病的にこの構成やワードチョイスはどうなの…とか思うことは、ときどきあるけど。まあ、それはほとんど編集者か校閲者になった気分)。
続きます。
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